沖縄県に住む26歳トラック運転手の沖猿です。
今回は、私のプロフィール・経歴をご紹介したいと思います。
基本情報
名前:沖猿
性別:男性
年齢:26歳
居住地:沖縄県
出身地:和歌山県
学歴:大学卒業
職業:トラック運転手
月収:手取り16万円
趣味:ダンス
現在までの経歴
まず、私の経歴を幼少期から現在まで、長々とをお話ししたいとおもいます。笑
これを見て頂けると私がどのような人生を歩み、どのような経験をしてきて、どのような性格かがわかると思います。
興味のある方はぜひご覧ください。
では、行きましょう。
幼少期〜中学時代
私は和歌山県の至って普通の一般家庭に生まれました。
父と母、3歳下の弟がいる、4人家族の長男です。
幼少期の私の性格は、
すごくシャイな子供でした。
どのくらいシャイかと言うと、
友達の家に遊びに行くときに、インターホンを押すのが恥ずかしくて、そのためだけにお母さんを呼んで一緒にインターホンを押しについてきてもらってたくらいシャイな子供でした。笑
そして小学校に入学し、
小学校2年生の頃、少林寺拳法を始めました。
少林寺拳法のおかげで、
挨拶、礼儀、作務(掃除)など、
人間として生きていく上で大切なこと、
自分自身の気持ち表現する大切さなどを学び、ここから大きく変わり、
一気に明るい性格の子供に変わりました。
その一方で、
この頃の私の家族の状況は大きく変わろうとしていました。
それは両親の離婚でした。
原因は、
父の浮気癖・年に1回ペースの転職・借金・家庭内暴力など、理由はたくさんありました。
私は子供のながらに、
この家庭の状況はなんとなく理解していました。
父の帰宅時間は毎日深夜で、
帰ってこない日もよくありました。
仕事も何度も変わっているのも見てきましたし、
短気な性格の父だったので、よく暴力も振るわれていました。
両親が離婚した頃、私は心に誓いました。
絶対に父親のような人間にはならないと。
自分は絶対に将来、
家族を大切にし、仕事を真面目にやって、お金を稼ぎ、家族を幸せにできるような人間になろうと。
これらの経験のおかげで自分の価値観や性格が形成さたと思います。
両親の離婚後、
母方の両親(私の祖父母)に金銭面的にも大きく支えてもらい、母と私と弟の3人は普通に生活を送ることができ、母も1人で仕事と子育てを頑張ってくれました。
このような小学生時代を過ごし、中学校に入学しました。
中学生時代はバスケ部に入り、少林寺拳法も中学卒業まで続けました。
中学生の頃の私は、少林寺拳法漬けの毎日でした。
少林寺拳法は毎日の稽古の成果が出て、
3年連続全国大会に出場し、全国大会優勝することもできました。
高校時代
中学校を卒業し、県内の公立高校に入学しました。
中学生の頃に、バスケ部で真面目に取り組めなかったことに後悔して、もう一度頑張ろうとバスケ部に入部しました。
3年間真面目に取り組み、引退まできちんと終えることができました。
その一方で、
密かな夢、憧れが高校2年生の頃にできました。
ダンスを始めたい!!!!!!!!!!
と言う夢です。
たまたまYOUTUBEで見た、
TIGHT EYEZという人の映像を見て、
感動して、自分もこれやりたいと心の底から思いました。
↑これがTIGHT EYEZの映像です。
この映像を見て、こいつみたいになりてー!と当時の僕は思って
ダンスを始めることを決意しました。(笑)
しかし、私の地元はあまりにも田舎で、ダンススタジオがなく、ダンスをしている人も全くいなければ、高校生でお金がなく、始めることができませんでした。
なので、
大学生になったら大阪に出ることができるので、
その時にダンスを始めようと心に決めました。
大学時代
高校卒業後、大阪にキャンパスがある大学に入学しました。
和歌山の実家から大学まで片道2時間をかけて通いました。
私の大学時代は、一言で言うと
「ダンス漬けの毎日」でした。笑
高校生のころに始めると決めていたダンスを始めました。
大阪でダンススタジオを見つけてそのスタジオに通い始めました。
毎日毎日ダンス漬けの生活を続け、バイト代もほとんどダンスバトルや遠征費に注ぎ込みました。笑そして、大学2年生の頃、
ダンス人生に大きな目標が来ました。
アメリカのレジェンドダンサーのチームに入りたい。
私はこのために、本人やそのチームのメンバーにFacebookや Instagramで連絡をとり、たくさんアプローチをかけました。
そして、大学3年生の冬にそのレジェンドダンサーが日本に来日するタイミングで会うことができ、その半年後に実際にアメリカに会いに行って、認めてもらいチームに入ることができました。
この時、自分がこのチームに入れた要因は2つあると思います。
1つ目は、自分の性格や気持ち、情熱を伝えたこと
2つ目は、ダンスの技術面を上げ、発言に伴う行動をしたこと
この2点だと思います。
この時に、自分の中で実際に目標にむけて、
それに伴う行動・発言をしたことが大きな要因だなと感じ、自分から行動する大切さを学びました。
最後に、
大学4年生の3月に、集大成としてダンスイベントを企画・主催し、大阪で開催することを決めました。
ゲストとしてそのアメリカのボスを呼ぶ予定でイベント開催に向けて準備を始めていきました。
しかし、そこで悲劇が起きました…
ボスがパスポートを取得することができない。
とのことでした。
飛行機は私の方ですでに予約してしまっていたため、それをキャンセルする羽目に…
さらに5万円のキャンセル料がかかってしまいました…
かなり痛手でした。
しかし、私自身これも想定していました。
僕はイベントを開催していた当時、準備をしていく上で大切にしていたことがあります。
それは、
常に最悪を想定して、準備をすることです。
最悪を想定していると、もしその事態が起きた時に焦ることなく対処できるからです。
そのため、私自身焦ることなく、次に切り替えて、同じチームメイトであるアメリカと韓国のダンサーの2人をゲストに変更して、無事当日を迎えることができました。
そして、イベントは100人を超える集客をして大成功に終わりましたが、、
赤字30万円…。
しかし、これも想定内でした。
私の中で、最悪30万円くらいの赤字かなぁと想像していました。
すると予想通り、赤字30万円。笑
常に最悪を想定して行動していた私にとっては、何のダメージもありませんでした。笑
やはり、何か目標に向けて動くときは、最悪を想定して、行動すること。
これが本当に大事なことだなと身に沁みて感じました。
そして、イベントが終わり、無事卒業することができました。
社会人1年目〜2年目
大学卒業後、ハウスメーカーに就職し、営業マンとして埼玉県に勤務することになりました。
ここで試練が起きます。
上司と先輩達とのコミュニケーションや、職場で働いていく中で、私自身すごく違和感を感じ、悩んでいました。
なんだろう…この違和感は…
何か自分自身に問題がある気がする…
何ヶ月も悩み、インターネットなどで調べていくと、ASDという発達障害の一種が自分の性格の特徴にとても当てはまっていました。
どのような特徴かというと、
・こだわりが強い
・話を真に受ける、冗談が通じない
・一つのことに没頭すると、他のことに手がつけられない
・思ったことをすぐ口に出してしまう
・職場に馴染めない
などがあります。
これらの特徴が多く当てはまっていて、自分で調べて勉強し、病院に行くとASDと診断されました。
職場での違和感の原因が分かってはっきりして嬉しかった気持ちと同時に、
環境を変えてみたいという思いから、会社に異動願いを出しました。
そして、その会社の工場の部署に異動することになり、福島県へ引っ越すことになりました。
それから、福島県で働きながら、ASDのことをしっかりと勉強し、自分自身を客観的に見て、自分の性格をより理解してコントロールし、働くことができました。
上司にも恵まれ、僕の異動してきた経緯も理解してくれていた上司だったため、とても仕事がしやすい職場環境でした。
社会人3年目〜現在
福島県で働き始めて、1年と少し経った頃、社会人3年目に突入しました。
その時、新たな悩みが2つ出てきました。
それは、
友達が周りに全くいないことと
彼女が沖縄に住んでいることです。
1つ目の悩みとしては、福島県で働いていて、職場環境は良かったものの、友達や遊び相手が全くおらず、ずっと1人で休日も過ごしていました。
その上、福島県に引っ越した頃から、コロナが流行した時だったため、不要不急の外出ができず、遠出の外出も全くできませんでした。
家族やダンスのチームメイトにも会うことができず、ただ1人でご飯を食べて、1人で家でダンスの練習のみ。
とても苦痛の毎日でした。
そして2つ目に、
大学生の頃から、お付き合いをしている彼女が沖縄に住んでいる方で、遠距離恋愛をしている状態でした。
出会ったきっかけは、
彼女が1年間大阪に住んでいた期間があり、その頃、私も大学4年生で大阪にいて、ダンスイベントを通じて出会い、お付き合いを始めました。
私が社会人になるタイミングで、
彼女も大阪から沖縄に帰ることが決まり、
その頃から遠距離恋愛をしていました。
当時、遠距離恋愛を始めて2年半以上が経ち、仕事も福島県で1人で続けることに限界を感じていました。
その時に大きな決断をしました。
よし、沖縄に引っ越してトラック運転手になろう!!!!
なぜトラック運転手かというと、
職場の工場で働いているときに、配送をしているトラック運転手の人たちがとてもカッコよく見えて、いつか自分もトラックに乗りたいなぁ。
と子供の憧れのように思っていました。笑
そして、
沖縄に引っ越すと決断した時から、
トラックの大型免許を福島県で取得し、
転職活動を行い、
沖縄の企業から内定をもらい、
退職することが決まり、
2021年の7月に晴れて沖縄に移住し、8月から沖縄の運送会社に転職しました。
沖縄移住〜現在
2021年7月、遂に沖縄移住をしました。
就職した運送会社は、同僚が若い年代の人も多く、とても働きやすい職場でした。
さらに、
様々な繋がりや縁のお陰で、ダンスを教える仕事をもらったり、ダンスイベントにたくさん出演させてもらうなど、たくさんのありがたい経験をさせて頂きました。
沖縄に引っ越してから、
彼女や仕事、ダンスも順調に進んでいました。
しかし、またここで1つ悩みが出てきました。
その悩みがWEBマーケティングを学ぼうと思ったきっかけに直結します。
それが現在です。
かなり長々とお話しさせてもらいましたが、
自分で言うのも何ですが、人生色々ありました。笑
良くも悪くも、かなり充実しています。笑
そんな中で、
新たな悩みとなぜ私がWEBマーケティングを学ぼうと思ったのか…。
次でお話しします。
WEBマーケティングを学ぼうと思ったきっかけ
経歴にも書かせて頂きましたが、
私は社会人1年目の頃に、ASDと診断されました。
最近よく聞く発達障害の一種です。
その診断された当時から、自分の性格について考えることが多くなりました。
その頃から、自分の性格的に、
『自分自身でいつか起業して仕事をしたいな』
と、漠然と自分の中で考えたりしていました。
この時が1番初めのビジネスに興味を持ったきっかけでした。
考えてはいるものの、
何からすればいいかもわからなければ、
そんなすぐに実現できるものではないので、
未だにトラック運転手として働いています。
余談ですが、
ASDは、自分自身の性格・特性を客観的に見て分析すれば、それらをコントロールすることもできるので、今は自分自身ちゃんと会社で働けています。笑
そして、
また別のことでビジネスに興味を持つきっかけができました。
それは、
給料が手取り16万円で、大幅な昇給が見込めず、
さらに日本の税金や年金、退職金がないなど様々な観点から見てお金に関して不安を感じたことです。
まず給料が安いことです。
給料が手取り16万円から、
家賃・光熱費・車のローン・奨学金・保険代・通信費など、
諸々引かれると貯金どころか遊ぶお金も残りません。
そして、
将来のお金のやりくりに関して、とても不安を感じました。
年金は当てにできず、税金や商品などの値上がりも多い現状、自分の将来はどうなるのだろうか…。
これはまずいなと自分自身考えました。
貯金もできない今のこの現状。
26歳のこの若いうちに何か行動をしないといけないなと考えました。
そしてある時、たまたまYouTubeでWEBマーケティングについての動画を見ました。
これを見た時に『自分がまずやるべきことはこれだ!』と強く感じました。
自分が将来、起業するためには、
この『知識』と『スキル』が絶対必要だと確信し、すぐにその動画の先生のWEBマーケティングスクールに申し込みをしました。
そして何より、自分がWEBの世界に入りたいと思った理由は、
ASD・沖縄移住・ダンス・起業といった自分の経験や目標を存分に活かし、
輝かせることができる
今までの自分を存分に発揮する場所、且つ自分の目標に近づく場所なのではないかと考えたからです。
そして、
この目標が達成した先には、両親が離婚した時に自分自身で誓った、
必ず家族を幸せにする。という夢も叶えられるのではないか…。
その夢を持ちながらも、頑張りたいと思います…!
目標
1年以内にWEBで月収30万円
↓
フリーランスになる
(2年以内に月収50〜100万円)
↓
起業
自分の目標はこの3段階になります。
まずは、
基礎固めをして、しっかりと知識とスキルを蓄え、アウトプットし、自分が成長できるようにまずは毎日勉強をします。
そして、収益化し1年以内に月収30万円を目指します。
その後、フリーランスになり、さらにスキルアップし月収50万円〜100万円を目指します。
そして自分自身で稼げる土台がしっかりできれば起業を目指します。
このような感じで、私のフリーランスになるまでの成長過程をお見せできればなと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!!!